エスノグラフィー(エスノグラフィック調査)とは、フィールドワークに赴いて消費者の生活に密着・観察し、あらゆる先入観や既存の知識を捨てて行動様式を分析・理解するというアプローチです。もともとは民俗学や人類学で用いられた手法で、異民族の文化の行動様式や思考を調査するために考案されました。人類学者たちは未開の地に入り込み、そこに住む異民族の人々と生活を共にすることで、民族の行動様式の背後にある共通の構造を見出そうと努めました。こうした手法は20世紀初頭から経営学の世界でも用いられ、例えばハーバード大学の研究者によって行われた有名な「ホーソン実験」では、まさに工場の環境や休憩時間、工場員の仕事ぶりや人間関係といった事柄を観察することによって、労働条件よりも職場の仲間意識や集団の規範が生産性に影響を与えていることを明らかにしました
経営学者であるドラッカーは、「企業が顧客や市場のことを理解していると考えるのは誤りで、顧客のことを知っているのは顧客自身なのだから、顧客を見たり聞いたりすることで顧客の求めている価値を理解することができる」と説いています。近年マーケティングの分野でこの手法が再評価されて広く企業の調査活動に取り入れられています。消費者に密着して行動やその背景にある文化・習慣といったコンテクストを明らかにすることで、これまで見えてこなかった課題やニーズが見えてくるからです。
消費者に密着するエスノグラフィック調査のメリットは、
ターゲットユーザーの生活を観察することによって、生活者自身が気づいていないニーズや彼らの大切にしている価値観を知ることができ、それらをもとに新商品・新規サービス創出を図ることができます。
また、既存製品・既存サービスに関しても有効です。ユーザーの生活において実際にはどのように使われているか、対象ユーザー独自の使い方の工夫を観察することによって、商品の改善点やユーザーにとっての価値を発見することができます。
エスノグラフィック調査では、消費者に関するあらゆる固定観念を捨てて対象者の生活・行動様式を感圧する必要があります。また、実際にエスノグラフィック調査を行う際には以下のような点に注意することで、消費者の理解を深めることが可能となります。
ユーザーは、自分のニーズを完璧に満たす商品が存在していない場合は、自分で工夫することでニーズを満たそうとする傾向が見られます。その工夫をベースに既存商品の改善や新商品の開発に役立てることができます。
ユーザーが特に不満を感じていないと発言していたとしても、何気ない行動・表現・環境には商品開発のヒントが隠されています。ユーザー自身が解決できないと諦めているような課題であっても、実は既存商品の利用もしくは新商品開発によって解決できる可能性があります。
平均的なユーザーだけではなく、エクストリームなユーザーも加えて観察することが重要です。
普段の生活シーンを観察することが目的であるため、できるだけその人が普段過ごしている環境で調査を実施することが重要となります。そのような環境で調査を実施したくないと対象者が申し出る場合には、その人が普段過ごしている街のカフェなどの限りなく慣れている環境や普段やっていることが思い出しやすい環境でインタビューすることが望ましいです。
デプスインタビューやグループインタビューといった定性調査では、ある調査テーマに沿ってインタビュアーが生活や購買行動、その背景にある価値観やニーズなどを深堀していくことが目的の調査方法です。1対1でじっくりと対象者の話を聞くことができるため、パーソナリティを捉えたり、デリケートな話題を扱ったりすることが可能です。
一方、エスノグラフィック調査では基本的に対話は行われず、あくまでの行動の観察が主軸となります。行動の観察をすることで、行動だけでなく環境の設備や習慣にも気を払うことができ、ユーザーが意識していない部分でのニーズを把握するのに効果的です。ユーザーの生活に入り込んで調査を行うため、本音と建前が発生しづらいことも特徴です。一方で、インタビュー設定に比べ、家に訪問したり日時を設定したりする手間とコストがかかってしまう点、物理的に観察できなかったりデリケートなトピックは扱いずらいといった点はデメリットといえるでしょう。
味の素では1997年当時に既に評判がよかった冷凍食品の「ギョーザ」のリニューアルに際し、思い込みを捨てて調理方法の実態を把握することで改善点を見つけようとしました。
実際に家庭でのギョーザを調理してもらうと、水の分量を目分量でフライパンに注いでいたことが分かりました。水が多すぎると本来のおいしさが損なわれてしまいます。結果として調理の際に水がいらないギョーザとしてリニューアルすることで全冷凍食品の単価売り上げで2003年から9年連続でトップとなりました。
参考:J-Net21 「ギョーザ」ハッとした瞬間、驚き与える商品が生まれた
おむつのパンパース、洗剤のジョイなどで知られる消費財メーカーのP&Gはイノベーションを重要視している会社として非常に有名です。実際にイノベーションチャンスを発見するための下敷きとなる消費者調査活動には年間最低でも4億ドル(約430億円)を投じています。
その中でも、インドで両刃カミソリに代わって、より安く性能の優れた一枚刃の「ジレット・ガード」を市場に投入する際にエスノグラフィー調査が活用されました。インドの農村部に暮らす男性の行動を観察することにより、インドの農村部では水道設備があまり整っていないためわずかな水で、もしくは全く水を使わずにヒゲをそるのが一般的でした。エスノグラフィーで行動を観察することにより、最小限の水でヒゲをそることができる一枚刃のジレットガードが誕生しました。結果としてカミソリの消費量が世界最大規模のインドにおいてジレットが50%以上のシェアを獲得するに至りました。
参考:Harvard Business Review October 2011 10 「マーケティングを問い直すとき」